理念
「禅」とは静かに真理を観察すること.心を散乱せず,一つのものに集中し,智慧を得るための修行法とされ(岩波仏教辞典)、原語から「静慮」とも訳されます。
「武」とは雄々しいこと。強いこと。戦いの力。戦いの術。戦いの意味や力、強さという意味です(広辞苑)。
「道」の字の意味は「首を目標に向けて進んでゆく」という意味があり、人として守るべき条理、または真理を求める心の意味があります。
単に戦いの技術を磨くという観点だけでは、強さや勝利への執着心や嫉妬心、敵対心、驕りや高ぶりなどが沸々と湧き上がり、己の利益や名誉、名声の追求だけに偏りかねません。
身体や力や技術を鍛え上げながらも、ときに沸き起こる荒々しい心を落ち着かせ、正しい方向を見失わずに人格の形成を目指してゆく。
それぞれがそれぞれの目標に向かって共に稽古に励むと同時に、周りの様々な関係性、人と人との繋がりの「縁」があってこその活動がであるということを理解し、共に稽古に励む仲間はもちろん、試合をする相手に対しての敬意と尊敬の念を抱きながら、しっかりと歩みを進めてゆく空間としての「場」、それが「禅」「武」「道」「場」という名称に込められている願いです。
「禅武道場草柔会」の活動を通して、肉体や精神の強靭さだけを求めるのではなく、さまざまな対象に対する「思いやり」や「やさしさ」といった柔軟さ を持てるような、「心・技・体」の全てをバランスよく修練していくことを目的とし、会員一人一人が人格の陶冶を成し遂げ、それぞれの立場に於いて社会的自覚を促がしていきたいというのが私達の考える「武道=人の道」としての稽古であり、それが「禅武道場草柔会」の理念です。
そうした理念をご理解いただいた上で、入会の際には
「私は、禅武道場の理念を理解し、活動を通して社会の一員としての自覚を促し、礼節を持って心・技・体の練磨に励むことを誓約いたします。」
という誓約書に署名をしていただきます。
会員の受け入れに際しましては、目指す「頂上」はひとつなれど、そこに至る入り口は広く多くありたいと思っております。
身体を鍛えたい、現在励んでいる格闘技のプラスにしたい、ダイエットしたい、仲間を増やしたい・・・・。
やろうという動機は各人それぞれでよいと思います。各々千差万別ですから、その人それぞれの状況に合わせて稽古に臨んでいただければと思います。
しかし動機はさまざまなれど、活動を通して上記の理念を体得していって欲しいというのが私達の願いです。
武士の刀を例にとりましょう。
武士道を歩む人間は、まずは刀を磨きます。
気を緩ませること無く、真剣に、注意深く、そして怠ることなく丁寧に仕上げます。
鋭く研ぎ澄まされた刀は、そのままでは持ち歩けません。
もしそのまま持ち歩けば、自分はもちろん、すれちがう人さえも皆傷つけてしまうからです。
それ故に「鞘」におさめます。
刀は鞘におさめられているからこそ刀であると考えます。
そこからは、滅多やたらに刀は抜きません。
いざという時。
この「いざという時」を見極め、瞬時に最大限の力を込めて刀は抜かれるものです。
それは守るべきものが失われようとする危険から回避すべき時、決して譲れぬものを守るときにこそ、
全身全霊を掛けてはじめてその刀は抜かれます。
私たちはこれを
・刀=技
・鞘=心・精神
・守るべきもの=体(身体や精神的支柱となる本体、道徳や道義など)
と捉えます。
武道の稽古をすることは、技を磨くこと。
磨けば磨くほど鋭さを増し、使い方を誤れば自らをも傷つけます。
その「刀=技」を操るのは心です。
心は技を磨く以上に丁寧に磨かなければなりません。
心は感情の起伏と密接に関係するからです。
この感情の起伏を抑える(コントロールする)ことが全ての中枢になると思います。
感情に左右されてばかりでそれを表に出せば、相手に容易にこちらの心を読まれます。
すなわち、感情的になりやすい人間ほど相手にそれを利用されてしまうものです。
ではそれをどのように抑えるのか。
私たちは、仏教でいうところの「三毒」を抑制する努力を心掛けることに、それを見いだしたいと考えます。
「三毒」とは
・貪(とん。むさぼり。執着)
・瞋(しん。自己中心的な怒り)
・痴(ち。愚かさの意味で、あらゆる事物の理に迷う愚かな心。無知(ここでいう無知とは真実を知らないということ)。恨みや妬み。三毒の中で最も根本となるもので無明(むみょう)という。)
相手に勝とう、勝とうと勝利至上主義に執着し、思い通りに行かないことにはいちいち怒りをあらわにし、利己的に自分の考え方だけで物事を判断し、他人の考え方を拒絶し誹謗・中傷する。
そこに迷いが生じてやがては自滅する。
これが「三毒」であり、道を成し遂げようとする時の最大の妨げです。
自分の中に湧き上がる「三毒」を見つけ、常にこれを無くそうと心がけ、努力することが、心を磨くということに通じてきます。
そうしてはじめて技をおさめる「鞘」となりえます。
普段から弛まなく磨いた刀も、後生大事に持っているだけではただの飾りにしか過ぎません。
そうした意味において、「試合」とは「刀(技)の試し合い」 であり、己の技を確認し、さらに磨く、より良い「砥石」であると捉えます。
試合という「非日常」の空間で、日ごろ磨いた刀を向かい合わせ、ルールという決められた制限がある中で、いかに技量を発揮していくか。
時には見事にその切れ味を発揮するかもしれない。
時には刃こぼれをおこし、折れてしまうかもしれない。
そうした中で今の自分の力量を確認し、素直に受け止める。
得られた結果に奢ることなく、また腐ることなく、修復すべきところは修復し、より鋭い刀(技)を磨く励みとします。
ここで 特に注意すべきは、試合はあくまで試合であって、
そこで得られる結果が、決して私たちの目指す「最終的な目標ではない」ということです。
いくら試合で勝とうが、帯の色が変わろうが、それはあくまで決められたルール上の「競技」での結果にしか過ぎないということ。
大会での成績はあくまで通過点であり、そこにとどまるべきものではないということを肝に銘じておくべきです。
試合とは向かい合う相手があってこそ成り立つもの。
すなわち、そうした相手に対して、倒すべき「敵」として捉えるのではなく、この広い世の中で、この瞬間、この場所で、
同じ競技に打ち込み、お互いの力量を高めあえる貴重な 存在であるという受け止め方も大切です。
さらに、そうした「場」は、それぞれの役割を担うたくさんの方々の想いと協力と尽力があってこそ 企画され、設立され、運営されるものであり、出場する選手もまた、普段の稽古において、それぞれを支える貴重な仲間や環境や状況があればこそ、その場に立つことができる訳です。
いずれにしても、私たちの活動は相互に多くの深い関わりあいがあってこそ初めて存在し、出会い、成り立っていることを忘れてはいけません。
そうした数々の「縁」に対する「感謝の心」を培ってこそ、お互いを尊敬し合える具体的な形としての「礼儀」が生まれてくるのだと 考えます。
私たちが行う稽古のはじめと終わりの「黙想」「礼」は、こうした心の象徴として大切に行われます。
心を込めて戸を開ける。
心を込めて挨拶をし、心を込めて道衣を扱い、心を込めて稽古に打ち込む。
一つ一つの行動を大切に修めていくことこそが、私たちの目指す人格形成への道を歩むということになります。
以上のような理念のもとに私達「禅武道場草柔会」の会員は、日々の稽古に励んでおります。
厳しさだけを求めません。
楽しさだけも求めません。
偏らない心で
時に厳しく、時に楽しく、穏やかに。
一人ひとりに丁寧に、そして真剣に向き合いながら充実した時間を共有したいと考えております。
禅武道場草柔会
代表 永松賢道